21世紀の怪盗ルパン 『怪盗ルパン伝 アバンチュリエ』(1)
この数年、かねてから個人的に「こんなことが実現されたらもう死んでもいい」とか思っていたことが社会のあちこちで次々実現し、お迎えが来る兆しじゃないかと真剣に恐ろしくなっております。
思いつくままに列挙すると、
・王妃マルゴ(ていうかアンリ四世)をしかも萩尾望都先生が漫画化
・羽生弓弦氏がオペラ座の怪人(しかも怪人のほう)をやってしかも凄かった
あとなんだっけ色々あるのですが、その最たるものの一つが、モーリス・ルブランの怪盗ルパンシリーズの本格コミカライズ作品。
『怪盗ルパン伝 アバンチュリエ』です。
怪盗ルパン伝 アバンチュリエ 登場編 (上) 怪盗紳士 (ヒーローズコミックス)
- 作者: 森田崇,モーリス・ルブラン
- 出版社/メーカー: 小学館クリエイティブ
- 発売日: 2014/08/05
- メディア: コミック
- この商品を含むブログ (1件) を見る
怪盗ルパン伝 アバンチュリエ(1) 公妃の宝冠 (ヒーローズコミックス)
- 作者: 森田崇,モーリス・ルブラン
- 出版社/メーカー: 小学館クリエイティブ
- 発売日: 2013/08/05
- メディア: コミック
- この商品を含むブログ (11件) を見る
怪盗ルパン、子どもときに夢中でポプラ社のシリーズ読みました。『奇岩城』は10回は読んだ。
しかし児童書のルパン像って子ども心にも何となく違和感のあるものなんですよ。「吾輩」とか自称する表紙絵の渋いおっさんが時々すごい痛い自画自賛始めたり、異様なテンションで踊ってはしゃいだりする。一方、翻案作家はみんなのヒーローで超人で善い大人だと力説。認知的不協和を頭の隅に押しやりながらの読書に若干の負担を感じるのです。
それを差し引いてもめくるめく展開、ルパンへのキャラ萌え、舞台となる20世紀初頭フランスへの一種のエキゾチズムなどが昭和の女子児童をいたく興奮させたものでした。
それから二十云年。
怪盗ルパンのマンガが描かれました…しかもルブランの原作に非常に敬意を払い、持ち味を伝える情熱を持ったマンガが。
それがあまりにも自分のニーズにジャストミートすぎて、改めてもう自分死ぬんじゃないかと。
まずルパンがおっさんじゃない。細身で現代的・中性的な黒髪イケメン。これだけで感涙、マジ泣きに値します。
しかもこれはマンガの独自設定ではない。ポプラ社版読んでた子どもの時は気づかなかったことですが、初登場時のルパンは20代半ば、若者だったのです。
なぜ小学女児であった私はルパンをおっさんだと思っていたのか。まあ自分が10かそこらのだったからというのもあるのですが、当時のポプラ社のルパンシリーズは『奇岩城』から始まっていたのが大きい。『奇岩城』は少年探偵イジドールの目線で進み、ルパンは堂々たる30代の大人、赫々たる実績を持つ大怪盗として立ちはだかります。
そこでルパンのイメージを固めてしまうと、次の『怪盗紳士』でも脳内イメージはおっさんのまま。次の『813の謎』では表紙からしてヒゲおっさん…。
その立派な(ヒゲ)おっさんが、大人気ない自画自賛したり警察やら金持ちをだまくらかしてはゲラゲラ嘲笑してるという絵が脳裏に浮かぶと、微妙な気持ちが湧き上がるわけです。
しかし『アバンチュリエ』は原作通り、『怪盗紳士』の若いルパンから始めるので、そういう違和感がない。あの変に高いテンション、自己顕示欲、むやみに「世間の大人」をあざ笑って見せるところなど、少しでも自分を大きく見せたい、エネルギーが有り余ってる若者のタチの悪さそのものと思える。
さらに若者ルパンが体制の象徴たる警察や金持ちをことさら愚弄したがる理由も、最初のエピソード(逮捕・脱獄)のすぐ後に語られる生い立ち(「公妃の首飾り」)で明らかになる。
こういうイメージを最初にガッツリ植えつけてくれれば、その後のルパンの大人気ない振る舞いも、「あーまだこういうところ残ってんのね」と、一種の可愛げとして生温かく見られるというものです。
『アバンチュリエ』作者森田崇氏は、ルブランのルパンシリーズが、「全体の流れを通してルパンの人生が見えてくる」「アルセーヌ・ルパン・サーガ」という側面を持っているとして(1巻巻末参照)書かれています。そして、ルパン物語とルパンというキャラの魅力を十分に表現するため、原作の発表順、作中の年代順を再現することに、かなりこだわりを持っているようです(これは作者の鉄の意志がないと実現できないことだろう。その結果としての掲載誌移籍騒動なんだろうけども、結局貫いてるんだからすごい)。
少なくとも私という読者に関しては、完全に作者の狙い通りになったということですね。
一方で、原作掲載順ではずっとあとに来るはずの「赤い絹のスカーフ」のエピソードを、『アバンチュリエ』では連載開始後わりとすぐに掲載していてます。
このエピソードは名作として知られているそうで、自分も昔、鮮やかな展開の妙に打たれた記憶があります。同時に、ガニマールの扱いがひどくて(パシリにしといてあざけり倒す)、読後感がスッキリしなかった記憶も。
対して『アバンチュリエ』では、このエピソードが早い時期に使われることで、若者ルパンの華麗な能力とそれに裏付けられた傲慢さ、ガニマールはじめ国家権力がなすすべなく翻弄される状況を、効果的に印象づけられたのではないかと思います。このあとはホームズならぬショームズが登場して、ルパンがたびたびピンチに陥る展開ですから、ここにこのエピソードを入れたことで、ルパンその他、キャラクターの位置づけがはっきりしたと思います。
これがマンガ作者の入念な計算によるものであることを示すのが、このエピソード最後にある、ガニマールとルパンによる、マンガオリジナルのやり取りです(ちなみにそれ以外の部分はほぼ原作どおり。ルブランの原作の端正なつくりにも驚かされる…)。
なぜその能力をもっとマトモなことに使わない?と責めるガニマールに対し、「マトモな社会」に対する独自の見解を開陳するルパン。それを聞いてのガニマールの感想は、作者森田氏によるルパンというキャラクターの解釈を端的に表現したものではないでしょうか。
そしてこの一言が、アルセーヌ・ルパンという、魅力的だけども共感はしがたい特異なキャラクターを、非常に理解しやすくするものと思います。
(多分つづく)