妾(わたし)の感想日記

徹頭徹尾女(自分)目線の感想文

21世紀の怪盗ルパン 『怪盗ルパン伝 アバンチュリエ』(2)

アバンチュリエ』既刊読破の余韻に浸ったまま、次巻春発売予定とか待てねーよーという荒れ狂う思いのままに作ったこのブログですが、書いたらスッキリしたので1か月間放置してしまいました。よくあることです。

 

そのあいだに『修道士ファルコ』の新作が1年半くらい前からドシドシ出ていることを知って新たに大歓喜。

さらに今、hontoのクーポンで何買うかーとサイト開いて知ったんですが、荒川弘アルスラーン戦記書いてるんですってね。

潜在意識下の希望が期待以上にどんどん実現していくのを目にするにつけ、やはりお迎えが近いのかもしれないという強まる思い。だがしかしこれらの行く末を見届けるまで死ぬわけにいかない。

いやあ日本ってほんといい国ですね。

 

そんなこんなで前回、『アバンチュリエ』について何を続けて書こうとしてたんだったか全く忘れてしまったわけです。まあルパンが若い細身のイケメンで嬉しかったということを百回くらい書いてもいいのですが、自分的には。

 今読みかえしてますが、つくづく骨入ってる仕事ですねえ。

「ルパン・サーガ」を実現するという筋を通すためには、いまいち引きが弱いエピソード(ハートの7とかユダヤのランプとか)を、知名度高い名作(奇岩城とか)の前に持って来ざるを得ないわけで、いったん打ち切りの憂き目にあったのもこのためでしょう。

でも作者は、自分の筋を通す仕事をすることに決めたのですね。それで新たな掲載先をtwitterで募集する運びに。それだけこの計画に熱があり、ルパンものの面白さに裏打ちされた自信があったのでしょう。

内容もさることながら、人のそういう仕事っぷりを見るのは気持ちがいいです。

 

その筋があったればこそ、ポプラ社ルパン読者であった自分が感動したこと、それは(繰り返しになりますが)彼がだいぶ「おかしい人」であることが、自然にストーリーに組み込まれていたことです。個人史に裏付けられた、作中一貫したキャラクターとして。

危険に嗜癖し、一種幼児的な自己肯定感を持ち、過剰な承認欲求と世に容れられない性癖(盗癖)のあいだで揺れ動く不安定な人間性。100年以上前に造形されたとは思えない複雑さです。原作者は元純文学作家だったそうですが、だからこそこんなキャラでも扱い得たのかなあと。意識下の欲望とか異常心理とか、あのあたりの時代の文学って得意でしたよね、たしか。うろ覚え。

 

そのへんのルパンの複雑さは、主にルパンの女関係、とくに「まともな女」へのコンプレックスに発揮されていると思うのですが、『アバンチュリエ登場篇』一巻ではネリーさんとの再会で印象的に描かれていました。

クロチルドについてもなあ。今後出てくるヒロインのことを考えると、だいぶ穿ってみてしまいます。なんか、お綺麗な女を堕落させる快楽みたいの感じてないですか?とか。

あんまり覚えてないのですが、ポプラ社版、女関係はレイモンド以外ほとんど印象に残っていません。でもルパンのキャラの複雑さが際立つのはやはり女関係だと思うのですよ。上のようなキャラ立てとか女遍歴を踏まえてこそ、「ルパンの結婚」だって面白く読めるでしょう。さいとうちほ版も可愛くていいんですけどね、あれにはもっともっとポテンシャルがあるはずなんだ!

VSルパン 1 (フラワーコミックスアルファ)

VSルパン 1 (フラワーコミックスアルファ)

 

 ですから、ソニアさん以降も『アバンチュリエ』にはそのへん頑張っていただきたい。それもエロく、できる限りエロくお願いしたい。

そして最終的にはエロエロしいカリオストロ伯爵夫人を心待ちにしています。あれは記述の仕方が微妙で小説としては何なのですが、稀に見るハーレクイン的ポテンシャルを含め、凄く「持ってる」原作だと思うのですよ。

ちなみにある編集者の言では「女子のエロスはときめきなのよ」ということですので、それも踏まえてぜひよろしくお願いいたします。

21世紀の怪盗ルパン 『怪盗ルパン伝 アバンチュリエ』(1)

この数年、かねてから個人的に「こんなことが実現されたらもう死んでもいい」とか思っていたことが社会のあちこちで次々実現し、お迎えが来る兆しじゃないかと真剣に恐ろしくなっております。

思いつくままに列挙すると、

黒田如水(←一番好きな武将)が大河ドラマ

王妃マルゴ(ていうかアンリ四世)をしかも萩尾望都先生が漫画化

・羽生弓弦氏がオペラ座の怪人(しかも怪人のほう)をやってしかも凄かった

あとなんだっけ色々あるのですが、その最たるものの一つが、モーリス・ルブランの怪盗ルパンシリーズの本格コミカライズ作品。

『怪盗ルパン伝 アバンチュリエ』です。

怪盗ルパン、子どもときに夢中でポプラ社のシリーズ読みました。『奇岩城』は10回は読んだ。

しかし児童書のルパン像って子ども心にも何となく違和感のあるものなんですよ。「吾輩」とか自称する表紙絵の渋いおっさんが時々すごい痛い自画自賛始めたり、異様なテンションで踊ってはしゃいだりする。一方、翻案作家はみんなのヒーローで超人で善い大人だと力説。認知的不協和を頭の隅に押しやりながらの読書に若干の負担を感じるのです。

それを差し引いてもめくるめく展開、ルパンへのキャラ萌え、舞台となる20世紀初頭フランスへの一種のエキゾチズムなどが昭和の女子児童をいたく興奮させたものでした。

 

それから二十云年。

怪盗ルパンのマンガが描かれました…しかもルブランの原作に非常に敬意を払い、持ち味を伝える情熱を持ったマンガが。

それがあまりにも自分のニーズにジャストミートすぎて、改めてもう自分死ぬんじゃないかと。

まずルパンがおっさんじゃない。細身で現代的・中性的な黒髪イケメン。これだけで感涙、マジ泣きに値します。

しかもこれはマンガの独自設定ではない。ポプラ社版読んでた子どもの時は気づかなかったことですが、初登場時のルパンは20代半ば、若者だったのです。

 

なぜ小学女児であった私はルパンをおっさんだと思っていたのか。まあ自分が10かそこらのだったからというのもあるのですが、当時のポプラ社のルパンシリーズは『奇岩城』から始まっていたのが大きい。『奇岩城』は少年探偵イジドールの目線で進み、ルパンは堂々たる30代の大人、赫々たる実績を持つ大怪盗として立ちはだかります。

そこでルパンのイメージを固めてしまうと、次の『怪盗紳士』でも脳内イメージはおっさんのまま。次の『813の謎』では表紙からしてヒゲおっさん…。

その立派な(ヒゲ)おっさんが、大人気ない自画自賛したり警察やら金持ちをだまくらかしてはゲラゲラ嘲笑してるという絵が脳裏に浮かぶと、微妙な気持ちが湧き上がるわけです。

 

しかし『アバンチュリエ』は原作通り、『怪盗紳士』の若いルパンから始めるので、そういう違和感がない。あの変に高いテンション、自己顕示欲、むやみに「世間の大人」をあざ笑って見せるところなど、少しでも自分を大きく見せたい、エネルギーが有り余ってる若者のタチの悪さそのものと思える。

さらに若者ルパンが体制の象徴たる警察や金持ちをことさら愚弄したがる理由も、最初のエピソード(逮捕・脱獄)のすぐ後に語られる生い立ち(「公妃の首飾り」)で明らかになる。

こういうイメージを最初にガッツリ植えつけてくれれば、その後のルパンの大人気ない振る舞いも、「あーまだこういうところ残ってんのね」と、一種の可愛げとして生温かく見られるというものです。

 

アバンチュリエ』作者森田崇氏は、ルブランのルパンシリーズが、「全体の流れを通してルパンの人生が見えてくる」「アルセーヌ・ルパン・サーガ」という側面を持っているとして(1巻巻末参照)書かれています。そして、ルパン物語とルパンというキャラの魅力を十分に表現するため、原作の発表順、作中の年代順を再現することに、かなりこだわりを持っているようです(これは作者の鉄の意志がないと実現できないことだろう。その結果としての掲載誌移籍騒動なんだろうけども、結局貫いてるんだからすごい)。

少なくとも私という読者に関しては、完全に作者の狙い通りになったということですね。

 

一方で、原作掲載順ではずっとあとに来るはずの「赤い絹のスカーフ」のエピソードを、『アバンチュリエ』では連載開始後わりとすぐに掲載していてます。

このエピソードは名作として知られているそうで、自分も昔、鮮やかな展開の妙に打たれた記憶があります。同時に、ガニマールの扱いがひどくて(パシリにしといてあざけり倒す)、読後感がスッキリしなかった記憶も。

対して『アバンチュリエ』では、このエピソードが早い時期に使われることで、若者ルパンの華麗な能力とそれに裏付けられた傲慢さ、ガニマールはじめ国家権力がなすすべなく翻弄される状況を、効果的に印象づけられたのではないかと思います。このあとはホームズならぬショームズが登場して、ルパンがたびたびピンチに陥る展開ですから、ここにこのエピソードを入れたことで、ルパンその他、キャラクターの位置づけがはっきりしたと思います。

 

これがマンガ作者の入念な計算によるものであることを示すのが、このエピソード最後にある、ガニマールとルパンによる、マンガオリジナルのやり取りです(ちなみにそれ以外の部分はほぼ原作どおり。ルブランの原作の端正なつくりにも驚かされる…)。

なぜその能力をもっとマトモなことに使わない?と責めるガニマールに対し、「マトモな社会」に対する独自の見解を開陳するルパン。それを聞いてのガニマールの感想は、作者森田氏によるルパンというキャラクターの解釈を端的に表現したものではないでしょうか。

そしてこの一言が、アルセーヌ・ルパンという、魅力的だけども共感はしがたい特異なキャラクターを、非常に理解しやすくするものと思います。

(多分つづく)

ブログの説明

女の体を35年引きずって生きてきた人間には、世の本やらマンガやら映画やらドラマやらゲームがこんな風に見え(感じられ)てならない、という思いを吐露するブログです。

でもこれだって、男の体から出てきた感想と同程度には「ニュートラル」だと思うんですよ。